2011/02/28

「すべき」ではなく「したい」ベースで考える

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公開用のブログのエントリの転載


個人や組織が活動する際、何をするか、具体的に決める必要がある。
そのとき、理想論にとらわれて「すべき」ベースでものごとを考えると、本質をはずすおそれがある。

何事においても、活動内容を決めれば自動的に活動がおこなわれるわけはなく、個人が、組織を構成するひとりひとりが、その活動を実行していく必要がある。
個人の行動にはモチベーションが必要であり、この点で、「したい」ベースの決定がアドバンテージをもっている。

「すべき」ベースでの決定は、「本当はしたくないし、正しくもないかもしれないけど、そうすべきと決まったことだからやらなければならない」という盲従を生み、盲従は、活動を誤った目的地に導く。
それに、「すべき」ベースの活動は、やっていて楽しくない。

だから、何事も「したい」ベースで考えれば自然ではないか、とそう思う。

2011/02/20

科学コミュニケーションと寺田寅彦

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公開用のブログに書いた内容の転載。


科学コミュニケーションの目的は、「科学やその楽しさを伝えること」であって、「科学コミュニケーションをすること」ではない。

そんなことを考えていたら、寺田寅彦の随筆にぴったりな文章があったので、抜き出してみる。

思うにうっかり案内者などになるのは考えものである。黒谷や金閣寺の案内の小僧でも、始めてあの建築や古器物に接した時にはおそらくさまざまな深い感動に動かされたに相違ない。それが毎日同じ事を繰り返している間にあらゆる興味は蒸発してしまって、すっかり口上を暗記するころには、品物自体はもう頭から消えてなくなる。残るものはただ「言葉」だけになる。目はその言葉におおわれて「物」を見なくなる。

職業的案内者がこのような不幸な境界に陥らぬためには絶えざる努力が必要である。自分の日々説明している物を絶えず新しい目で見直して二日に一度あるいは一月に一度でも何かしら今まで見いださなかった新しいものを見いだす事が必要である。

考えてみると案内者になるのも被案内者になるのもなかなか容易ではない。すべての困難は「案内者は結局案内者である」という自明的な道理を忘れやすいから起こるのではあるまいか。景色や科学的知識の案内ではこのような困難がある。

寺田寅彦 『案内者』 より

何事によらず、気をつけた方がよさそうですね。

2011/02/19

組織やイベントの運営における「適当さ」について

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公開用のブログに書いた内容の転載。

組織やイベントの運営には、「適当さ」が必要である。
あってもいい ではなく、必要 だと思っている。

こういったものを運営する際、やはりある程度までは、文章をつくって、スケジュールを立てて、人員を配置して、…と、「きちんと」仕事を進めなければならない。
しかし、人を対象に人が行う活動には、どうしても不確定要素が生じる。
生じた不確定要素に対して、多くの場合、事前に「きちんと」決めた計画は対応できない。
これに対応するのは、人の柔軟性やその場の機転になる。

そして、事前に方向性を定めておくことができない柔軟性や機転において、本来の目的や理念を外さないようにするためには、それを行うメンバーに、組織・イベントの目的や理念が共有されている必要がある。
事前に「きちんと」決めた計画に比べて、柔軟性や機転は、ミクロな視点の問題解決には有効だが、マクロな視点の目的達成に弱い。
しかし、柔軟性や機転を発揮するメンバーが、マクロな視点(組織・イベントの目的や理念)をわきまえていれば、この点をかなりの程度補うことができる。

「適当さ」は、裏を返せば、「余裕」でもある。
余裕のない活動は、そもそも楽しくないものになりがちで、楽しくない活動は、メンバーのモチベーションを下げる。
モチベーションの下がった組織や団体からは、やはり、どうしても良い成果は生まれづらい。

不確定要素をゼロにすることができない以上、また、感情をもった人が行う活動である以上、組織やイベントの運営には、「適当さ」が必要である。
人をロボットかなにかと同じように考えて、事前にすべてを「きちんと」計画しようとした活動は、たいていの場合、つまらないものになりがちで、ちょっとした突発的な問題に対して非常に脆弱である。

2011/02/15

論文を書く = 人に伝える

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今回実感したことがもうひとつある。

「真理を追究すること」は「追究した真理を人に伝えること」とセットになってはじめて意味を持つ、ということだ。

自分たちの思考なり試行なりを、論文という媒体を通して、それを読む人の脳内に再現させなければならない。
論文がおもしろいのは、文章だけでなく、図や表や全体の構成も、表現の重要な一部になるというところだ。
もし、意義のある発見をしたとしても、それを人に伝えることができなければ、成果と見なされず、埋もれていってしまう。

科学者は、真理の追究者という側面と、文章を駆使する表現のエンジニアという側面をもっている必要があるのではないだろうか。

2011/02/14

基準を理解する

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先日来の論文を、先生の多大なるご協力をいただいて昨日ようやく再投稿し終わり、一息ついたので、今回感じたことを書いてみる。

まず、科学の基準というか、ルールというか、それが実によく体感されて理解できた。

論拠として何を示せば、その主張が妥当と考えられるようになるのか?
そして、何をもってその論拠の正確さを保証するのか?

分野ごとにレベルの違いはありながらも、科学であるならば、上記を満たす答えを用意する必要がある。
つまり、どのくらいの基準を満たせば科学として認められるか、という暗黙の了解のようなものが、どの学問分野にもあると思う。

勉強をつづけてきて、卒研や修士の研究を経てきて、この基準について頭ではわかっていた。
しかし、実際に、真剣勝負の科学の最前線でそれを体感したのは、(当然といえば当然なのだけれど)今回がはじめてだった。

reviseが返ってきたとき、最初に感じたのは、「これくらいの基準なのか」という納得感だった。
そして、慎重にやれば、科学の基準を踏み外すおそれはないということがわかり、ある程度の安心を感じた。
基準・ルールがわかっているなら、おそるおそる周りを探るのではなく、その範囲のなかでのびのび動き回ることができる。
そして最後に、すこし苦しんだ。自分が基準を外していないということと、自分が基準を外していないということを人に伝えることは、やはり少々異なる物事だった。

総じて言えば、自信を得た。そして、楽しかった。
また同時に、「研究者」としての自分の未熟さも理解することができた。英語の表現、研究のストラテジー、研究報告の型、…学ぶことはまだまだたくさんある。

100ページを超える修士論文を書くよりも、数10ページの投稿論文を書くほうが、得るものははるかに大きい。そんな1ヶ月だった。

2011/02/10

楽しさは与えられるものじゃない

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楽しさって、決して、与えられるものではない。
与えられた「楽しさ」はほんとうの楽しさではない。
そう思う。

モノゴトがつまらないのであれば、自分が楽しくしてやればいい。
つまらないモノゴトを、遊んでしまえばいい。
その過程こそがなによりも楽しいんじゃないの?
と、そんなふうに考えている。

「常識」とか、ほかの人の言っていることとか、そんなもの全部忘れて、やってみればいい。
そしたらきっと楽しいから。

何において輝くか

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仕事を通して、きらきらしている人に出会う。
次々と新しいものを創り出すエンジニアの方、人の心をとらえて硬直した組織を動かす企画の方、…。
そういう人に出会うたび、この仕事もまだまだ捨てたものじゃないなと思う。

でもその反面、そのような人に出会い、刺激を受けるたびに、自分はどうなのだろうかと考えずにはいられなくなる。
自分は何においてそのように輝きたいのか、何において輝けるのか。

すてきなエンジニアのようになりたいとして、では、彼らと同じくらいのプログラミング技術を身につけるのにどのくらいの年月がかかるのか?
組織を動かせたとして、それは自分が生涯をかけて追い求めていきたいテーマなのか?

やっぱり、なにか違う。
興味もあるし片手間に(でも本気に)つづけることは望むところなのだけど、それらは自分にとっての本質ではない。
で、その本質のために、今の環境で何がどのくらいの効率で得られるのか?
この問題が、ここしばらく頭を悩ませている。

2011/02/06

自身を表すラベル

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大学院を卒業して以来、自分自身が何によってかたちづくられているか、ずっと考えさせられていた。

学生でいたあいだは、「生物学をやっています」「人類学をやっています」と胸をはって答えることができ、まさにこれらが自分自身を表していたと感じていた。

しかし、会社員になってからは、自分が何者であるか、人に伝えるのが難しくなった。
自分はエンジニアでもなく、ビジネスパーソンでもなく、仕事については、胸を張って人に伝えられることが何もなかった。
したがって、自分自身を、ある企業の社員であると紹介することによって、かならず、相手をあざむいているような気分になった。
プログラミングを学びはじめて、また、仕事がある程度目に見える成果につながるにつれて、この心苦しさは緩和されてはきたけれど、それでもゼロになることはないと感じている。

もちろん、自分自身にそのようなラベルをはって、わかりやすく性格づけするのが最適解だとは決して思っていない。
しかし、社会に暮らす以上、他人は自分をそのようなラベルのもとに眺め、それが真であろうとなかろうと、自分はそのことを意識せざるを得ない。

…あなたは普段何をしているのですか?
…あなたはどんな人間ですか?
こう問われたとき、迷いなく口に出せる答えは、自分自身を縛るかもしれないが、ときには自身に勇気を与える。
そんなことを考えている。

いろんな世界

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前の金曜日は、いろいろな世界を見た。

ひとつは、インターネットの最前線。
ひょんなことから、とある著名なブロガーの方と、とあるギークなエンジニアの方との3人で、ネット利用に関するインタビューを受けた。
詳しくは書かないけれど、アンテナの感度の高い人は情報の集め方が違うんだな、ということと、彼らにとってインターネットは本当に空気のような存在なんだな、ということがよくわかった。
大いに得るところがあった。

次は、アカデミアの世界。
昼休みの時間を利用して、たまたま都心に出てきていた先生と論文のreviseについて話し合った。
先週、寝る間も惜しんでプログラムを打ち込み英語を書いた甲斐あって、やっと出口が見えてきた感触だった。
こちらは再提出期限まで1週間を切った。さてさて。

最後は、テレビの収録。
こちらもたまたま訳あって、夕方から、テレビ番組の収録風景に立ち会った。
局の人々や、出演者の芸能人、そのおつきの人、そして彼らの醸し出す雰囲気、…なんだかテレビを見ているようで(笑)、おもしろかった。

現実には、こうした隔てられたいろんな世界があって、人はそのどれかで生きていて、ときには行き来することもある。
どこかに深く通じつつ、ほかの世界とも自由に行き来して、それらをつなげていくことができたら、すてきだ。
そんなことを思った、不思議な金曜日だった。

2011/02/03

うまくいかないのが当たり前

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revise中の論文にデータや新たな視点を加えるために、スクリプトを書いて、シミュレーションを走らせて、結果を検討して、…ということを繰り返していて、ふと、研究は、うまくいかないことのほうが多いものだったなと思い出した。
大学院卒業後から今までは、修士課程の研究成果をストーリーとしてまとめる仕事ばかりをしていたので、そのことをすっかり忘れていた。
この、いくらやっても思った通りにならず、うまくいかない苦しさと、けど、10に1くらい突き抜けるようにうまくいくことがあって、そのときに感じる快感と、それが研究の醍醐味だなあと、ふと思い出した。