漱石の言いたいこと・気持ちが、手に取るようにとてもよくわかったような気がした。
長い悩みと迷いの後に、自分のすべきことが見えたときの気持ちが、そこに表れていた。
そして、すべては自分しだいであるという強さが見えてくる。
私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。
私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。
こんな迷いが、
ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。
という気づきに変わる。そして、
この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。
という「自己本位」を手に入れる。
この「自己本位」という言葉、何を意味しているのかはとてもよくわかるのだけれど、それを言い表せるちょうどいい自分の言葉がなかなかみつからなかった。
(これをうまく言い表せなかったため、『私の個人主義』を読んでこのエントリを書くまでに一週間以上の時間が空いた。)
それでも、やっとなんとかみつけることができて、それは、「したいことをすればいい」ということだった。
これについては日を改めて書くことにしたい。(書きました)
最後に、ちょっと勇気づけられる一文を。
腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越しているとおっしゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。
漱石ですら、30歳に至るまで、自分の「したいこと」をみつけられなかった。
20年以上生きてきてやっと、自分は「したいこと(人類学の研究)」に気づいたけれど、まだまだ遅くはなかったな、とあらためて思ったりした。
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