2011/04/01

したいことをすればいい。

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「したいことをすればいい。」
これは、ここ1年で得た、人生における最大級の学び?のひとつだ。

まず、「したいことをする」ためには以下2つのことが必要になる。

1. 自分の「したいこと」を知ること
2. 「したいこと」を前に自分を抑えないこと


1. 自分の「したいこと」を知ること

人生の目的(=したいこと)を決める、ということは、その目的以外の可能性をあきらめる、ということでもある。
人生の無限の選択肢を自分から捨てて、そのうちのひとつに賭けるのには、大きな勇気がいる。
うまくいけば達成感も大きいが、そのためには長く苦しい努力が必要になることも、みんな知っている。
だから、人は躊躇する。
…コストをかけて挑戦しても、失敗するかもしれない。
…もしかしたら、ほかにもっとよい選択肢があるかもしれない。

そうして、本当に「したいこと(=人生の目的)」を考えないようにして、目の前に次々あらわれる現実的な問題を切り盛りすることで気を紛らす。
心の中では、きっとチャンスがめぐってくると思いながら、チャンスをつかみにいくほどの積極性も持つことができず、日々が過ぎていく。

例をあげてみる。

夏目漱石は、「したいこと」を30歳過ぎるまで決めきれなかった。

腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越しているとおっしゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。

(夏目漱石 『私の個人主義』)

参考:「私の個人主義


(好き嫌いはひとまず置いておいて、)孫正義なんかも言っている。

登りたい山を決める。
これで人生の半分が決まる。

(孫正義 『孫正義 LIVE 2011 その1』)

だけど、登りたい山を決めてない人が、腹の底から決めきれてない人が、実は99%なんです。

99%の人がしっかりと腹の底から自分の登るべき山を、自分の夢、自分の志を決め切れてない。

(孫正義 『孫正義 LIVE 2011 その3』)


「したいこと」を知らないままにしておく人生、本当にそれでいいのだろうか?
あり得たはずの可能性を追い求め、軽い失望と浅い喜びを繰り返して、気づいたときには、すっかりすり減った自分しか残っていない。
…そんなふうになってしまうんじゃないか。

私は、失敗したっていいし、ほかの可能性がすこしくらいおろそかになってもいいから、自分の信じた道を進んでみようと思うようになった。
それが、自分にとっていちばん楽しいことであり、「海鼠のように」生きているよりもよっぽど「生きている」ことにつながると気づいたから。


2. 「したいこと」を前に自分を抑えないこと

それが自分のしたいことであっても、「当たり前」でないことをするのは困難だ。
周りの人の目を気にする自分が、自分自身の衝動を抑えてしまうから。
しかし、この「当たり前」とはなんだろう?
多くの人が当たり前と考えていることが「当たり前」になるのかもしれないけれど、だからといって、必ずしも、それがすなわち自分にとっての正解になるわけではない。

自分にとっての正解でないことは重々承知しているが、それでも、みんながやっているから、白い目で見られて仲間はずれにされたくないから、仕方なく「当たり前」にしたがうということもよくある。
でも、他の人から白い目で見られて、仲間はずれにされたところで、だからなんだというのだろう?
世の中には実にたくさんの人がいて、実に多様な価値観がある。
自分の狭い視野に見えている範囲外にも視界を広げれば、「当たり前」でない考え方を受け入れてくれる人やコミュニティはたしかに存在する。

また夏目漱石の例を出す。
彼は「自己本位」という言葉でこの概念を表している(と私は解釈してます)。

この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

(夏目漱石 『私の個人主義』)

参考:「私の個人主義


そして、もうひとつ、『カモメのジョナサン』などを著したリチャード・バックからの引用。

リチャード、君はまだわかってないよ、もちろんやめられるんだ、やめたければ何だってやめられるよ、気が変わったらね、君が望むのなら、息をするんだってやめられるぜ。

自由が欲しいときは人に頼んじゃいけないんだよ、君が自由だと思えばもう君は自由なんだ。

(リチャード・バック著、村上龍訳 『イリュージョン』)

信念に従った行動が「当たり前」に反していた場合、それは多くの人から反感を買うかもしれない。
でも、もう一度言うけど、そんな反感が、だからなんだというのだろう?
信念にしたがった行動によって得た1人の仲間は、非常に心強い味方になる。
その一方で、信念を偽って、外向きの自分をおとなしく演じて、100人の人から支持されたとして、自分はその100人を心からの仲間と認め得るだろうか?
外向きの自分が評価されたとして、そんな偽りにだまされてしまうような人たちからの賞賛は、はたして本当の賞賛なのだろうか?
(もちろん、それでもまったくかまわない、という態度も十分ありだと思うけれど。)

私は、それよりも、「当たり前」なんかそれほど気にせずに、信念に従った行動を軸にしたほうがよさそうだと思った。
家庭、幼稚園、学校、会社、…、人がコミュニティをつくるところにはほとんどすべて、「当たり前」の制約があらわれる。
この「当たり前」の制約にしたがっていれば、コミュニティのなかで、表面的には幸せに暮らせるかもしれないけれど、それで果たして自分は満足なのか?
また、そのコミュニティの外にでたとき、コミュニティが存在しなくなったとき、それで生きていけるのか?

この1年のあいだに、実にいろいろな刺激があって、私は、知らず知らずのうちに閉じ込めていた「当たり前」を疑う心を、再び思い出した。
(それでも、まだまだ疑いきれていない。だからこんなブログを書いているのかもしれない。)


まとめ

私がこの1年で学んだのは、「したいことをすればいい」ということだった。
そしてそれは、以下の2つに要約される。

1. 自分の「したいこと」を知ること (リスクをとって挑戦する勇気をもつこと)
2. 「したいこと」を前に自分を抑えないこと (「当たり前」を疑い、自身の信念を信じること)

…長くなり、内容もなんだかまとまらないものになってしまったけれど、とにかくそういうことです。