2011/06/18

仕事を通して感じたこと

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15ヶ月間の仕事を通してはっきりと感じたことを2つあげてみます.(学んだ というと何か違うような気がしてます.)

1. 物事を決めるのは意志である
2. 魅力的な人は,学び続け,本質を外さない

ほかにもいくつかあるのですが,とりあえずこれらが大きいのかなと思います.


1. 物事を決めるのは意志である
データを集めて,人が顔をつきあわせて話をしても,物事が「決まる」わけではない.そうではなくて,意志をもった個人が,物事を「決める」必要がある.世の中の問題にはたいてい確実な解が存在しないか,または確実な解に到達するためのコストが非常に高いから,ある程度から先は,意志でもって,決め打ちで解を出してしまわなければならない.

ある程度確実な「事実」の上に新たな「事実」を積み重ねていく自然科学の考え方では,確実な(と考えられる)解に到達するために許容できるコストが比較的大きい.
その一方,スピードや新規性が重視されるビジネスの世界では,自然科学ほど厳密に物事を予測する必要がなく,解に到達するために許容できるコストがとても小さい.そのため,ビジネスの世界では,自然科学の世界以上に,物事を意志で決め打ちして先に進む場面が多くなる.

これまで前者の考え方に染まってきた自分にとって,後者の考え方は新鮮だった.この考え方は,不確実性が大きい場合や短時間で結果をださなければならない場合に,とりわけ有効となる.そのような場合は,入念に物事を予測しても外れる可能性が大きく残るし,予測に時間をかけるくらいならさっさと実行してしまったほうがいいということになるから.

また,これを逆に言うと,物事を決める意志のないところには何も価値が生じないし,意志を持たないと簡単に流されてしまうということにもなる.惰性で集まるMTGは時間の無駄ということだし,言われた仕事をこなしているだけでは,意志をもった他人に利用されているだけで,たぶん目的の場所にはたどりつけないということ.

とはいえ,意志で何かを決めるということは,責任をもつということと表裏一体で,たいていの場合,それなりの苦しみをともなう.意志をもたないようにしてこの苦しみを避けるほうが楽なのであれば,それはそれで別にいいのかもしれないけれど.

また,仕事はチームで行なうため,合意のもとに意志決定をする必要がある.そして,その際に重要なのが,共通の価値基準になる.自然科学ではロジックだし,企業であれば理念やビジョンがこれにあたるんじゃないかと思う.
価値基準が定められていても浸透していなかったりすると,物事を決めるときに色々な考えをもった個人が自分の望むほうに結論を引きこもうとして,時間やコストが余計にかかり,解も本質を外したものになりやすい.
逆に,多様な視点をもちながらも目的を共有したメンバーが集まれば,大きく広げたアイデアをきれいに収束させて,とても楽しい仕事ができる.


2. 魅力的な人は,学び続け,本質を外さない
どんな組織にも,すてきだなあと思う人がいる.会社で出会ったそういう人たちを見ていて,彼らの特徴が初めてなんとなくわかったような気がする.それは,学び続けていることと,本質を外さないこと.

2-1. 学び続ける
嫌でも勉強しないといけない学生時代が終わると,学び続けている人とそうでない人の差が大きくなっていくのかもしれない.身につけた知識や技能が有用で効果的であるほど,コモディティ化も早くなって,多くの場合は,量やごまかしに特化しなければ取り残されてしまうようになる.それを避けるためのひとつの方法が,常に学び続けるということ.

学ぶこととは,外部環境に対して素直に眼を開くことと同義かもしれない.多くの場合,外部環境の変化は自分でコントロールできない.だからといって,外部環境の変化という厳しい現実から眼を背けることは,一時の安心こそ与えてくれるが,長期的にみると賢い選択ではない.学びという行為は,その厳しい外部環境の変化に,柔軟に適応していくための手段なのだと思う.

勉強は「強いて勉める」と書くくらいだから,続けていくのは楽ではない.それでも.新しい情報を得て技術を自分のものにして,楽しみながら学び続ける人たちがいる.少なくとも私は,そういった人たちに魅力を感じる.私自身が「知ること」に価値を置いているからであり,前向きな気持で物事を吸収していく様子は純粋に素敵だから,ということもあるかもしれない.

2-2. 本質を外さない
本質を外さないとはどういうことかというと,疑問をもつことだと思う.いろいろな物事に対して,それは本当か,もっと良いアイデアがあるのではないか,と考えてみるということ.
そしてもうひとつ重要なのが,自分のやり方でその疑問を表現すること.正面きって指摘することもあれば,自分の技術を使ってルールをhackすることもある.

疑問をもつところまではたいていの人がやっている.問題は,たぶん,その疑問を表現するかどうかにある.これを言ったら相手から嫌われるかもしれないとか,自分は間違ってるんじゃないかとか,どうしてもそういう恐れが出てきてしまう.また,自分の意志や行動について,相手から疑問を提示されると,多少どきっとするところがある.

それでも,すてきなチームですてきな仕事をするためには,疑問を表現しなければならない.疑問の表現は必ずしも否定ではないし,まして感情的な攻撃でもない.疑問を表し,それを解決することで物事は深まり磨かれていくし,そのプロセスにこそ仕事の楽しさがある.自分自身が,表面的な解に満足せず,疑問を表現することに躊躇しないようあれば,そして周りの人々もそうであれば,きっと刺激的な時間と本質をついた成果が得られる.


まとめ
以前からなんとなく思っていたことが,会社で働いてずっと明確になりました.それは以下のとおり.

1. 物事は意志でもって決めなければならない.
意志のない仕事は,非効率で,それほど大きな価値を生まない.

2. 私にとって魅力的なのは,学び続け,本質を外さない人.
・学び続けることで,外部環境の変化に柔軟に対応していくことができる.
・本質を外さないとは,疑問をもち,それを表現するのに躊躇しないこと.

2011/06/01

退職します

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2010年度に新卒で入社して1年と数ヶ月勤めた会社を,このたび,退職することにいたしました.今後,私は大学院に戻り,修士課程の頃から引き続いて,自然人類学(生物としてのヒトを,進化や文化などの観点から解釈し理解しようとする分野)の研究をする予定です.
お世話になったみなさま,本当にありがとうございました.この1年あまりの期間で,視野が広がり,自身の軸が明確になりました.たくさんの魅力的な方に出会い,大いに刺激を受けました.そして,これからもどうぞよろしくお願いいたします.(といっても,退職日はまだ少し先ですが)


…さて,このエントリの本題に移ります.ここでは,なぜ私がそのような決断をするに至ったか書いてみたいと思います.

今回の選択をするにあたって,考えたことが3つありました.

 1.自分のしたいことは何か?
 2.自分は何において価値を創り出せるのか?
 3.これからの社会では何が必要とされるか?

これらを順に見ていくことで,退職に至る経緯とその理由が説明できるのではないかと思います.


1.自分のしたいことは何か?
修士1年で進路を決めた際,私は,アカデミックな世界に残り自然科学の研究をつづけるか,民間企業に就職してビジネスに携わるか,大いに選択を迷いました.最終的には,研究を人生の目的にしていいものか答えを出しきれず,また,アカデミックな世界にちょっとした息苦しさを感じていたことから,就職を選択しました.

しかし,内定後から入社までの期間と,入社後約1年の期間に,非常に大きな出会いと意識の変化があり,私は,自分のしたいことは研究なのだとはっきり理解し,またアカデミックな世界に戻る覚悟を固めることになりました.

詳細は省いて簡単に説明します.
ビジネスの世界で実際に仕事をして,「科学」に関する活動から離れた時間を過ごすことで,保育園の時代から触れてきた「科学」が私のアイデンティティにいかに深く根をおろし,興味関心の方向や価値観に大きな影響を与えていたかということに気がつきました.
また,どのような世界で生きていくにしろ,やりたいことをできない原因を外部に求めてあきらめてしまうのではなく,とにかくやってみれば良いのだということを思い出しました.人から何と言われようと自分がしたいことをすればいいし,実際にやりさえすればそれは可能なのだ,と気づいたわけです.

人生において一番の価値を置く対象は人それぞれだと思います.私の場合,それは,研究という手段を通してヒトの進化や行動を「知ること」でした.他のものもあるに越したことはないですが,「知ること」ができればひとまずそれで十分だと,1年あまりの会社勤めを通して,あらためて気づいたのです.
このようなわけで,私は,人生の目的をひとまず自然人類学の研究に置くという決断をしました.巨人の肩の上に立ち,自身のアイデアをもとに少しだけ遠くを見ることができればと思います.


2.自分は何において価値を創り出せるのか?
この1年のあいだの仕事を通して,自分の手でモノを創り出すことができるエンジニアという人々と接し,一方の私自身は何において価値を創り出せるのか,ずっと考えつづけていました.エンジニアの人々が,プログラムを通してアイデアを次々とカタチにしていくのを見るにつけ,企画や管理ではなく実際にモノを創り出したいという想いが強くなっていきました.短い人生において,楽しみながら,自分なりの価値を効果的に創り出せるフィールドは何なのか,この間,必死に考えていました.

答えは,身近なところにありました.
実は入社後も,大学院の指導教員だった先生にご協力をいただき,業務とは別に論文を書き,わずかながら研究もつづけていました.2011年の1月,海外の学会誌に投稿した論文がreviseされ,1ヶ月以内の改訂と再投稿を求められました.ここから1ヶ月間,会社の業務時間外に,論文を直し追加の研究を行いました.

このとき,自分の研究成果が世界からきちんと認められたことと,私の場合は,研究こそが,問を立て,自分の頭で考え,手を動かして新たなモノを創り出していく手段だったのだと,はっきりと理解しました.指導教員の先生の力添えなくしては成し得なかったことではありますが,このことを通して,研究というフィールドにある程度たしかな手応えを感じたのでした.

ある種の物事は,自分にとって大切なほど,それをすることが当たり前になり,そのことがどれだけ価値あることなのか,客観的に気づきにくくなるように思います.私にとっては,研究がそういうものだったのではないかと思ったりしています.


3.これからの社会では何が必要とされるか?
裏付けのない肌感覚ですが,いま,日本の社会は大きな変化の時期にあると感じています.
たとえば,
@sayuritamaki さんの『創職時代
@kawayasu さんの『人生をリストラする
こういったエントリに,そのあたりの感覚がまとまっているように思います.

まったく個人的な意見ですが,私は,これからは,外部から与えられた価値判断基準が以前ほどは信用できなくなり,個人個人がそれらを新たに見出し創り出さないといけなくなるだろうなと感じています.今と同じような生活水準を,10年後も,みんなが保てるかどうかはわかりませんし,もしかしたら,20年後,日本という国自体がなくなっているかもしれない.そんな状況のなかで,外部環境の変化に攪乱されずにハッピーな人生をおくるには,価値判断基準の出どころを,自分自身の内側にもってくる必要があると考えています.

仕事だって同じだろうなと思っています.どんな大企業だったとしても,いま働いている会社が10年後にまだ存在しているかはわからない.今後,もっと,仕事は外部から自動的に与えられるものではなくて,自分から創り出すものになるかもしれないと感じています.所属している組織とか役職とか,そういう外部から与えられたラベルは本質ではなくて,グローバルな視点で,誰かに喜んでもらえる何かを創り出す力を自分自身が持っているかどうか,それが重要になってくるのではないかと.(創職というやつですね)

そうした観点に立って,人生を眺めると,与えられた環境で与えられた問題を解いているより,そういうラベルをできるかぎり振り落として,自分の力で問題をみつけることに挑戦したいと感じました(その手段として研究を選んだわけです).そのほうが,仕事を創り出す力を養うことができ,なにより自分自身が,変化していく社会のなかでもハッピーに生きていけるだろうなと思ったのです.

もちろん,研究はうまくいかないときの方が多くて,研究以外のことにも心を悩ますでしょうし,この先もしかしたら,こういう選択をしたことを後悔する瞬間が何回も訪れるかもしれません.また,Natureのこの記事にあるように,この先は研究者だって相当大変だろうと思います.
"Education: The PhD factory"
それでも,何にしたって自分で仕事を創り出す必要があるのなら,自身の望む分野でそれに挑戦したほうが良いのではないかと思うのです.

「常識」や「当たり前」は知らずのうちに忍び寄ってきて,人生を縛るようになります.私だってまだまだ縛られていますし,必ずしも,縛られないほうがいいというわけでもないかもしれない.しかし,私たちが,自分の人生を自由にできる自由を持っている以上,自分の頭で考えて,すこしでも楽しい環境を選び取り,創りあげていくために,「常識」や「当たり前」に疑問を投げかけてみることも重要ではないかと思うのです.そうして見出した自分にとっての真実に嘘をつかないで生きること,それが,大きく変化する社会で幸せに生きる手段のひとつではないかと思うのです.


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以上,こんなことを考えて,私は退職を決めました.

長々と書きましたが,結局,理由は「人類学の研究をしたいから」 という一言でまとめられるのかもしれません.ある程度大きな問題を見出し,それを解きうるアイデアがあふれてきて,わくわくして,我慢できなくなってしまったような状況です.人の興味は移り変わっていくものですし,数年経ってみたら,研究なんか大嫌いだとかなんとか言っていたりするかもしれません.しかし,今の私にとっては,このような感情がまぎれもない真実のようです.

会社で過ごせる時間も残り少ないですが,自分にできる最大限の価値を提供して退職日をむかえられるよう,気を抜かずにいきたいと思います.