2011/11/19

ルーティンな生活 (あるいは 収束と発散)

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内田樹さんの『最終講義 -生き残るための六講』という本に,以下のような文章がありました.

僕がルーティン大好き人間であるのは,ルーティンそのものが好きだからじゃないんです.そうじゃなくて,ルーティンを守って暮らしていないと,絶対に「アカデミック・ハイ」は訪れてこないということがわかっているからなんです.

これまでなんとなく感じてきたリズムみたいなものが,うまく文章化されているような気がしました.
私自身も,自分の生活をルーティンに保っていないと,うまい具合にパフォーマンスをあげられないことが多いように思います.それは,食べるものであったり,朝起きる時刻であったりします.
お昼においしいものを食べに行ったり,プライベートで人とゆっくり話をしたり,そういう贅沢をすると,なんだか心が落ち着かなくて,ふわふわしているうちに一日が終わってしまう,そんなことがよくあります.また,特に睡眠時間は重要で,明確に緊急な要件でもない限り,睡眠時間が足りなかった日は,ほとんど集中できずに時間が流れていきます.

でも,決して,それらの「非ルーティン」なことが必要ないと言ってるわけではないですし,それらがあったほうが,より一層わくわくどきどきできるようなときもあります.

この違い,どこから来るのかと考えて,自分自身のリズムとの対応が重要なのかなと思いました.
何かの目的を達成しようとしていたとして,最初インプットを重ねているとき,意識が内側に向けて収束しているような感じになります.この段階ではたいてい,生活がルーティンなほうが効率が良い.
しかし,ある程度たまってきたインプットをアウトプットに変換していくときや,いちばん最初にそもそもどういう目的を設定するか考えるようなとき,意識が外に向かって発散していくような感じになります.この段階では,「非ルーティン」によってリズムが撹乱されると,かえって面白い結果を出せるようになることがある.

本には,以下のような文章もありました.

自分の知性が最高の状態にないことに,空腹や眠気や渇きと同じような激しい欠落感を覚える人間だけが,知性を高いレベルに維持できる.

私にとっての「高いレベル」が本当に高いレベルなのかは定かではありませんが,こちらもなんとなくわかるような気がしました.
ごくまれに訪れてくる「アカデミック・ハイ」のわくわくどきどきした状態のためなら,「変化のない生活」も別に苦ではなくて.いや,苦とかそういうものではなくて,プロセスの一部である,とそんなことを思うのでした.

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