2011/12/31

2011年

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1月1日にこんなことをtweetして,そのとおりの1年になったように思います.

好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。 (坂口安吾 『夜長姫と耳男』)

あるいは,夢十夜の第二夜のような.

サイエンスをやりたいという明確な想いは一貫していて,でも,いかに想いを実現して,さらに将来につなげていくかが具体的でなく,視野の狭さに鬱々としながらも,とにかく組み立てては壊してを繰り返して,やっとここまでたどりついた,という感じ.
そうしなければつぶれてしまいそうに思ったから,わかっていながらも偽物の「強さ」に身をかためて,なんとか自分をドライブしてきたような.
内と外とで違う時間が流れていると感じることが多くなり,3月の地震でも,現実感が圧倒的に希薄だった.

時間はあったけれど,余裕を感じとることができなかった.余裕とは,時間があるということではなくて,余裕を感じる心があるということ.
「咒う」ことで,たしかに力は出るのだけれど,それは人を幸せにしない力.そして,ひとりでできることには限界があって,短期的には無駄に見えても,長期的にはそうしないほうが良い結果が出ることが多いし,なによりそちらのほうが楽しい.これまで何度も思い知ってきたこのことを,あらためて強く感じた.

しかし,全体的に見て,内的にも外的にも,次につなげられる種のようなものをいくつも手にできた1年でもあったように思う.来年は,こんなふうになりそうな気がしている.

孤独な鳥の条件は五つある.第一に孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ.第二に孤独な鳥は同伴者にわずらわされず その同類にさえもわずらわされない.第三に孤独な鳥は嘴を空に向ける.第四に孤独な鳥ははっきりした色をもたない.第五に孤独な鳥は非常にやさしくうたう.-サン・ファン・デ・ラ・クルス

やさしくうたうことが,できればいいなあ.

2011/12/23

半年

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最終出社日がちょうど夏至の日で,その反対側の冬至の日が昨日でした.つまり,実質的に,会社を辞めてから半年経ったわけです.

この半年のあいだ,「選ぶ」ということに対する意識が,いつも頭の片隅にありました.
限られた時間を何に使うか.そして何に使わないか.
選ぶとは,何を選ばないかを決めることでもあります.
選ばなかったものには拘泥しないこと.

しかし,「拘泥しないこと」に拘泥してしまった半年でもありました.
まだまだ自分で自分を縛っていて,高く飛ぶことと飛びつづけることの両立が難しいようです.

そして,「慣れ」のおそろしさを幾度も感じました.
慣れに対するおそれにすら慣れてしまう.
「慣れ」には,そういう圧倒的な包容力 (包容力です…!) があります.

写真は,Montpellierで見た青空です.
TGVから街に降り立ったとき,見上げて,「無」ということを感じたときの初夏の空.
…高く,飛びたいものです.

2011/12/19

「権威主義的な」美術鑑賞

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先日 (といっても10日以上前ですが…),三田の家にお邪魔してきました.
古い家を改装してあって,マスターや学生やその他の方がいて,はじめてなのになんだか落ち着ける素敵な空間でした.
参加したのは hiranotomoki さんの美術鑑賞会で,他の人の感じ方も参考にしながら,ひとつの美術作品とじっくり向きあう時間でした.

さて,そこで大いに気になることがふたつあったので,そのうちのひとつについて考えてみます.

おそらく多くの人が,権威主義的な美術鑑賞に敷居を感じているのに,なぜそうしたシステムはなくならないのか?
ということです.

他の方の考えを聞いて,自分の印象と比較して,強く感じたのは以下のことでした.

美術についての知識がないと,美術館に行っても楽しみ尽くせないような,なんだかそういう敷居の高さを感じる.

これを仮に「権威主義的な」美術鑑賞とでも名づけておきます.
どこかの偉い権威たちが,この作品は良い!と言ったら,それはほんとに良い作品であり,構図とか色使いとか歴史的背景とか,彼らの言う良さを知識として理解していないと,美術作品を楽しんだことにはならないよ,という暗黙の圧力でしょうかね.

こんな「権威主義的な」美術鑑賞の仕方が,おそらく多くの人にとって美術館を訪れる敷居を高くしているのに,どうして存続できているのかな,ということについて考えてみます.

さていきなり結論です.
逆説的ですが,美術というシステムを駆動しつづけるのに必要だったからではないか,となりました.

作品を介して資本が動き,芸術家がある程度の対価をもらうシステムを安定的に維持するには,芸術作品の「ランク」のようなわかりやすさと,競争を適度なレベルに保つ参入障壁 (敷居の高さ) が必要だったのかなと.

近所の小学生が描いた絵よりは尾形光琳の屏風のほうが「芸術的」で,美術商や市場がそう言ってるんだから認めなさいという,圧力をもった基準があればこそ,多くの人は安心して美術作品に大金を投じますし,安心して休日をまるまる使って美術館に行くのかな,ということです.
もしそういう基準がなかったら,小学生の絵も尾形光琳の絵も「まったく同じ」美術作品ということになって,市場やシステムを安定的に維持していくために必要な,稀少性とそこから生じる価値が,なくなってしまうわけです.

2011/12/10

「誠実さ」について

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誠実さとは,「反証可能性 ※1」を残しておくこととも言えるのではないかなと,最近考えるようになってきている.

ある人を対象に,当人のいないところでうわさ話をするのは,その人に反証の余地を与えないので,誠実ではない.ネガティブな感情を抱いて,それを表に出すことを選ぶのであれば,その対象に対して,または最低でもその対象がその場に存在するときに,そうすべきだろうと思う.

事実を隠蔽するのは,他者に「再現性」を与えない行為なので,誠実ではない.利害が同一方向に収束するのであれば,事実は利用可能なかたちにしておくか,知られてまずいようなことはするべきではない.

もちろん,すべてがこのルールで語れるわけではないけれど.

「誠実さ」に関して,何度も何度も失敗していて,誠実さとはなんだろうと最近よく考える.ネガティブな感情を,たとえば珍しいカメラに触ってみるように扱うことができたら,良いなと思う.

※1 キャッチーな言葉として使っているだけで,科学哲学の反証可能性とはかなり異なるものです.

2011/12/02

大きなシステムに反対する活動について

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大きなシステムに対して,徒党を組んで反対する活動は,非合理的かもしれないという話.

競争や不平等は,限られた資源を目当てに多くの人間が算入することによっておこる.
そして,競争の結果はたいていロングテールになっていて,少数の非常に富める者と,大多数の比較的貧しい者とが生じる.

就活や社会格差などの大きなシステムの下では,多くの人は望みどおりの結果を得ることができず,システムに不満を抱くことになる.
そこで,不満を抱く多数の者で徒党を組んで,システムに対して反対の声をあげたり行動をおこしたりすることがある.
反対すること自体が目的であれば構わないけれど,もしその先にあるはずの自分自身の幸せが目的であるなら,こうした活動はちょっと非合理かもしれない.

反対する活動というのも一種のシステムだから,徒党を組んで組織的にやるほど,反対しているはずのロングテールの不平等なシステムと同じ構造をもった世界が確立されていく.同志でもあり競争者でもある人間のひしめくそんな世界で,果たして自分は幸せになれるだろうか?
また,システムを崩壊させたところで,代わりの足場となるほかの世界を創りだしていなかった限り,また新たに生じた大きなシステムに組み込まれて,同じような不幸せに巻き込まれることになる.

大きなシステムに反対する活動はリスクも高い.
(もっともあり得そうなシナリオとして) どれほど反対したところで大部分の人がシステムに安住することを選べば,自分は何の利益も得られず,それだけでなく自分という競争者を排除したことによってシステムに属するメンバーに利益を与えることにもなってしまう.

その一方で,システムでなく自己を軸にすえれば,こうした問題はだいたい生じない.
システムはそこにあるものとして認めたうえで,まず自分の優先順位やしたいことを本当に考えて,いろいろ手をつくしてそれを追求してみる.そうすれば,システムの現状がどうあろうが,自分の軸までふりまわされて致命的なダメージを受けることはない.(本当に考えた結果が,システムに反対する,というのももちろんあり得る)


まとめると,システムの下でシステムに反対しても結局は同じになってしまうということ.そうでなくて重要なのは,システムそのものを飛び越えてしまうこと.言いかえると,反対そのものを目的にするのではなく,自分の本当にしたいことを軸にして行動すること.
そうした「自己本位」の過程が,結果としてシステムの不合理性への反対となるんじゃないだろうか.



このエントリは (というよりこのエントリに限らず),誰かを誹謗中傷したりするような意図で書いているわけではないことを付記しておきます.