2011/08/21

賞状授与における適切な距離の取り方について

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先日,たまたま,賞状授与を間近で観察する機会に恵まれました.
(どんな機会だよ というツッコミはさておき)
50ほどの賞状の受け渡しを観察した結果,授与する人と表彰される人のあいだの距離の取り方に,どうやら3つのパターンがあるように見受けられました.

それはこんな感じです.

まず,表彰される人が前に出てきて立ち止まり,その後で,
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a. その位置で,両者がそのまま足を動かさずに授与 (その場型)
b. 立ち止まった位置から,表彰される人が授与する人に "2歩" 近づいて授与 (歩み寄り型)
c. 授与する人がすこし後ずさったあとで授与 (後ずさり型)
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ちなみに,授与のときには,それぞれが上体を曲げて受け渡しをします.

例数をかぞえておかなかったため,あくまで印象ですが,
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a. その場型: 40%
b. 歩み寄り型: 55%
c. 後ずさり型: 5%
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というくらいの存在比です.

以下で,この現象について考察してみましょう.

まず,人は,自分と相手のリーチを暗黙のうちに計算して,空間のなかで物理的な位置取りを決めています.
そして,賞状授与では,通常の行動に比べて,
・それぞれの立ち位置からそれぞれが上体を曲げて受け渡しを行なう
・賞状の長さを加味する必要がある
などの不確定要素が多いため,この位置取りの計算が困難になるものと思われます.

主に位置取りをするのは表彰される人のほうです.表彰される人は,すでに前に立っている授与者を遠くから観察し,リーチや賞状の長さを見積もり,自分の番が来たとき前に出て,ある程度の見当をつけて立ち止まります.
そしてこの後に,どの型が出現するかが決定します.

a. その場型
実際に立ち止まってみて,授与する人のリーチを間近でより詳しく推定し,遠くから立てた見当が間違いなければ,両者はその場で立ち止まったまま受け渡しができます.このとき,「その場型」が出現します.
多少の誤差は,上体を曲げる角度を調整することで吸収できます.また,賞状授与という厳粛な場でちょこまか動くのはみっともない,という気持ちもはたらいているかもしれません.それで,この型は40%くらいの頻度で出現します.


b. 歩み寄り型
一方,実際に立ち止まってみて,想定していたより授与者が遠かった場合,「歩み寄り型」が出現します.
すべてのケースで,歩み寄っていたのは,表彰される人のほうでした.賞状をくださる,という状況が暗黙の力関係を規定し,授与する人 (= 権威者) を動かすのは失礼である,という意識がはたらくのかもしれません.
また,歩み寄りは,必ず "2歩" からなっており,1歩だけや4歩の歩み寄りは観察されませんでした.賞状授与という厳粛な場では,過剰な動きを抑えつつ,それでも足を揃えたほうが良いという意識がはたらいているのだとしたら,もっとも少ない奇数歩,つまり2歩が最適な歩み寄り歩数となります.無意識のうちにここまで計算されているのだとしたら,スゴイものですね.


c. 後ずさり型
表彰される人が想定していたより近くに立ち止まってしまった場合,授与する人がすこし後ずさります.これが「後ずさり型」です.
授与する人 (= 権威者) を動かす,パーソナルスペースを侵犯する,という点で,この型はかなりのレアケースです.もしなにかの賞状授与の際にこの型を見ることができたら,心の中で静かに喜んでも良いと思われます.

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今回のケースでは,"表彰される側" については50ほどのサンプルが得られましたが,賞状授与の性質上,"授与する側" のサンプル数はひとつのみでした.今後は,授与者のサンプル数を拡大した際にも,同様の現象が観察されるか検討する必要があるでしょう.
今回は,不幸にして,上述の3つの型の出現頻度を正確に観察していなかったため,定量的な分析ができませんでした.今後,サンプル数の拡大とあわせて,定量的な観察も行なっていくようにしましょう.
また,今後の重要なテーマとして,時間経過 (授与者の疲労) や式典のカタさの度合いによる型の出現頻度の違い,例外型の検出などがあげられるでしょう.

さらなる研究が望まれます.

2011/08/12

"成功した大学院生になる"

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進化生態学の研究者であるJohn N. Thompsonさんの書かれている ”ON BEING A SUCCESSFUL GRADUATE STUDENT IN THE SCIENCES (Version 8.1)" という文章*1 *2 を読んで,なかなか有益な部分もあるなと思ったので,自分のために和訳してみました.
あくまで自分のためなので,逐語訳ではなくほとんどが意訳ですし,省略した部分もかなり多くあります.

この訳文からの引用などはあまりおすすめしません.必ず原文をご覧ください.

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Thompsonさん本人の許可を取っていませんでしたので,該当部分は削除いたしました.ですが,すばらしい文章ですので,興味のある方はぜひ原文をご覧ください.
(2015年2月2日)

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*1 もともとは @thinkeroid さんのtweetにあったリンクを拝見して,この文書の存在を知りました.ありがとうございます.
*2 「成功」の定義は人によってさまざまでしょうし,私自身「成功」という言葉を使いたくありませんでしたが,原文にならい,アカデミアのjob marketで職を得る ということを「成功」と定義し,便宜的に使用しています.
*3 項目には便宜的に番号をふっていますが,原文にはついていません.

2011/08/05

他者を変えるか自分を変えるか

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他者を変えるのはほんとうに困難だけど,自分を変えるのはそれよりは簡単で,効果と労力のトレードオフを考えてどちらかを選ぶといいのかもね,という話.

システムや組織の現状について,納得のいかない感情を抱いていて,とにかく何とかしたいと思っていたとする.そのときに出てくる選択肢は,
・システムや組織(つまり他者)を変える
・感じ方や置かれている環境(つまり自分)を変える
という2通りがあると思う.(なにもしない,という選択肢はひとまず除外.)

効果が大きいのはもちろん前者で,もし自分が「まともな」感覚の持ち主であれば,改革の成果は,きっと多くの人に喜ばれる.その反面,自分と同様,さまざまな他者もそれぞれに固有の意見や感情をいだいており,外からはたらきかけてそれらを変え,統一していくには大きな労力が必要になる.

一方,後者は,自分自身の思い込みや強情を克服することさえできれば,比較的容易に達成できる.場合によっては,「逃げた」と他者から蔑まれ後ろ指をさされる可能性もあるけれど,少なくとも自分自身はある程度の満足を得ることができる.

それで最近思うのが,前者は,感情の収束する先が自分の内にないんだなということ.他者を変えようとする過程で学ぶことは大いにあるだろうし,達成できればそれはそれですごいことなのだけれど,他者の行動や思考に,自分自身の満足や価値基準が大いに依存することになってしまう.一方の後者では,他者の思惑に関係なく,自分が本当にしたいことを熟考し実現することが重要になってくる.

もちろん,他者からどう評価されるかということも,自分自身のモチベーションを構成する大きな要素ではある.しかし,前者をしようとする際には,それほどの労力を他者のためにつぎ込む覚悟があるか?とあらためて自問してみる必要があるのかもしれない.