プロであることはできない
自分がプロであると言っていいかどうかは,まず一番最初に気になるところと思います.結論から言うと,プロであることはできないので,プロであろうとすべきです.
まず,ここで話題にしているのは,ライセンスとかラベルとか他人から与えられる「プロ」としての称号ではないので,プロとは,明確に定められない (= 自分で基準を決める必要がある) 概念になります.
そこで考えてみると,プロとは達成できない概念であることがわかります.自分はプロだと言い切って,鍛錬や適応をやめてしまったら,なんだかプロっぽくないですよね.おそらく,プロに近づけば近づくほど,プロであると簡単に言うことはできなくなるのではないかと思います.
それで,プロというのは達成できない概念だとすると,私たちは,プロであるか否か,ではなく,プロであろうとするか否か,ということになります.この観点に立つと,ひとつだけ重要なことが見えてきます.
自分はプロでないからテキトーでも良いだろうというのは,外部要因によって決まることではなく,実は自分で決めることである
ということです.テキトーにやったほうがうまくいくことも (実はたくさん) ありますし,何に対しても気をつめていると疲れてしまうけれど,テキトーではないやり方でやるかどうかは自分次第なわけです.
プロであろうとする
責任を背負って仕事をするということと,プロであろうとすることは,ほとんど同じことかなと思います.人との,ある程度深い関係の中で,自分がすることを選んだ仕事には,責任が生じます.責任を果たすとは,人との関係の中に自分が在るということに価値を与える,ということだと思います.そしてたいていの場合,見学者や教わる側としてその仕事をすることを選ぶのであれば,必然的に,自分がそこに在る必要はなくなります.見学者はあくまで見学者だし,教わる側はあくまで教わる側なわけです.したがって,自分がそれをすることを選びとり,自分がそれをすることに価値を与えようとするなら,どうしたって,プロであろうとしなければなりません.
苦しいことに,背景や立場といった文脈には言い訳ができても,自分で決める事実には言い訳があまり効かないのです ※1.だから,自分で選びとったのなら,半人前だから…とか,学生だから…とか,よく知らなかったから…という文脈に逃げ道を求めるわけにはいかなくなります.プロであろうとするか否か,その事実があるだけです ※2.
注
※1 こう書きましたけれど,たしかに効かないかもしれないけれど,でも外的にも内的にも,許してもいいとは思うのです.言い訳,いいじゃないですか.※2 とはいえ別な面においては,それはもう心からの自戒を込めて…
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